A.P.C.(アー・ペー・セー)

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A.P.C.(アー・ペー・セー)は、1987年にジャン・トゥイトゥ(Jean Touitou)によってパリで設立されたファッションブランドです。ブランド名は「Atelier de Production et de Création(生産と創造の工房)」の略称であり、デザイナーの名前を前面に出す当時のファッション界の慣習に対する静かな抵抗から名付けられました。

ヘルムート・ラングやルメール、スタジオニコルソンといったブランドが追求するミニマリズムの系譜において、A.P.C.はより日常に根ざした「究極のスタンダード」を提示し続けています。装飾を削ぎ落とし、素材の質とシルエットの美しさに全てを注ぐその姿勢は、設立から35年以上が経過した今もなお、世代を超えて愛されています。ここでは、A.P.C.がいかにして世界のファッションシーンに「日常の美」を定着させたのか、その歴史と哲学を圧倒的なボリュームで詳述します。


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ジャン・トゥイトゥの哲学とブランドの誕生

A.P.C.の物語は、創業者ジャン・トゥイトゥの強烈な個性と、当時のファッション界に対する違和感から始まりました。チュニジア生まれのジャンは、パリで歴史学を学んだ後、ケンゾー(KENZO)やアニエスベー(agnès b.)でキャリアを積みました。しかし、1980年代後半のファッションシーンは、華美な装飾や過剰なブランディングが主流であり、ジャンが理想とする「実用的で誠実な服」を見つけることは困難でした。

  1. 創造と生産の等価性ブランド名に「アトリエ(工房)」という言葉を冠した理由は、服作りにおいてデザイン(創造)と同じくらい、実際に形にするプロセス(生産)が重要であるというジャンの信念に基づいています。彼はデザイナーを「スター」として扱う風潮を嫌い、匿名性の高い、職人的なアプローチで服を作ることを選びました。
  2. 脱ファッションの美学A.P.C.が誕生した1987年、ジャンが最初に発表したのは「HIVER 1987(1987年冬)」という名のメンズコレクションでした。そこには派手なロゴも、奇をてらったディテールもありませんでした。あったのは、上質なウールのコート、シンプルなシャツ、そして完璧なフィットのパンツだけです。この「ファッションではない服」こそが、後に世界中の人々が熱狂するA.P.C.スタイルの原点となりました。

聖域としての生デニム(ロウ・デニム)

A.P.C.の名を世界に轟かせた最大の功績は、間違いなく「生デニム(リジッドデニム)」の再定義です。現在、デニム愛好家の間でA.P.C.のジーンズは一つの聖典のような扱いを受けていますが、そこにはジャン・トゥイトゥの執拗なまでのこだわりが詰まっています。

  1. 日本産セルビッジデニムの採用A.P.C.のデニム生地は、日本の職人技術によって作られた最高級のセルビッジデニムを使用しています。ジャンは、デニムの聖地である岡山の職人たちが織りなす、硬く、密度が高く、深いインディゴの色合いに惚れ込みました。この生地は、履き始めは驚くほど硬いですが、時間をかけて履き込むことで、着る人の体の動きに合わせた唯一無二の「色落ち(アタリ)」が生まれます。
  2. 伝説的な3つのシルエットA.P.C.のジーンズには、スタイルを象徴する3つの主要なフィットがあります。・ニュースタンダード(New Standard):ブランドの原点であり、流行に左右されないストレートレッグ。・プチスタンダード(Petit Standard):ニュースタンダードをベースに、よりタイトでモダンなシルエット。・プチニュースタンダード(Petit New Standard):上記二つの中間に位置し、テーパードが効いた現代的なフィット。これらのシルエットは、どんな靴にも、どんなトップスにも馴染むよう、数ミリ単位で計算されています。
  3. バトラー・プログラム(Butler Program)A.P.C.には「バトラー(執事)」と呼ばれるユニークな制度があります。これは、顧客が数年履き込み、美しい色落ちに仕上がったデニムをショップが回収し、代わりに新品を半額で提供するというものです。回収されたデニムは、クリーニングを経て「バトラー・デニム」として再び店頭に並びます。これは、服が単なる消費物ではなく、時間をかけて育てる「財産」であることを証明するA.P.C.らしい取り組みです。

デザイン哲学:ノーマルの力(Normcoreの先駆)

A.P.C.が提案するのは、一見するとどこにでもあるような、しかしどこにもない「普通の服」です。

  1. 完璧なバランスの追求ジャンのデザインプロセスは、既存のスタンダードをいかに洗練させるかに重点が置かれています。例えば、一枚の白いシャツを作る際にも、襟の大きさ、ボタンの間隔、袖口の絞り方など、不自然さを徹底的に排除します。その結果、A.P.C.の服は「着ている自分」を意識させないほど自然で、それでいて周囲には洗練された印象を与えます。
  2. ロゴの匿名性A.P.C.の多くのアイテムには、外側に目立つロゴがありません。ブランド名は内側のタグに静かに記されているだけです。これは、「誰の服を着ているか」よりも「その服を着てどう生きているか」を重視するジャンの哲学の表れです。
  3. カルト的な人気を誇るハーフムーンバッグウィメンズにおいて、A.P.C.の地位を不動のものにしたのが「ハーフムーンバッグ(Demi-Lune)」です。その名の通り半月型のシンプルなレザーバッグは、一切の装飾を省いたミニマルなデザインでありながら、フランスらしい上品さと実用性を兼ね備えています。このバッグは、現代のITバッグ(時代を象徴するバッグ)の中でも、最も息の長い定番として愛されています。

音楽、アート、そしてライフスタイルへの浸透

A.P.C.は単なるファッションブランドではなく、ジャン・トゥイトゥという人物が愛する文化そのものを提案するライフスタイル・レーベルとしての側面も持っています。

  1. 音楽への情熱ジャン・トゥイトゥは熱狂的な音楽愛好家であり、自身でも音楽制作を行います。A.P.C.の各ショップで流れるプレイリストは厳選されており、時には自社レーベルからレコードやCDをリリースすることもあります。音楽はA.P.C.の世界観を構成する不可欠な要素です。
  2. ライフスタイル・プロダクトA.P.C.は衣服だけでなく、キャンドル、キルト、さらにはオリーブオイルまで展開しています。これらは単なるサイドビジネスではなく、ジャンが「良い」と信じるものを共有するための手段です。特に、ジャンの家族がチュニジアで生産しているオリーブオイルは、彼のルーツと誠実さを物語るプロダクトとして知られています。
  3. 建築と空間設計A.P.C.の店舗設計は、建築家ローラン・ドゥルー(Laurent Deroo)が長年担当しています。木材、コンクリート、ガラスを多用した、静謐で建築的な空間は、A.P.C.の服が持つミニマリズムと共鳴しています。店舗そのものが、ブランドの哲学を体現する一つの作品となっています。

世界との対話:A.P.C. INTERACTION(コラボレーション)

A.P.C.は、自分たちの世界観を閉ざすのではなく、他者との対話を通じて新しい価値を生み出す「INTERACTION(インタラクション)」という形式でコラボレーションを行っています。

  1. 多彩なパートナーカニエ・ウェスト(Kanye West)との衝撃的なコラボレーションから、サカイ(sacai)、ラコステ、さらにはカトリーヌ・ドヌーヴのような大女優まで、その相手は多岐にわたります。
  2. 変わらないA.P.C.の核いかなる強力なパートナーと組んでも、出来上がるプロダクトは常に「A.P.C.らしい」清潔感と実用性を保っています。これは、ブランドのアイデンティティがいかに強固であるかを証明しています。ジャンはパートナーに対し、常に「自分たちのスタンダードをどう解釈するか」を問いかけます。

ヘルムート・ラングやルメールとの共通点と相違点

A.P.C.は、しばしばミニマリズムの文脈でヘルムート・ラングやルメールと比較されます。

ヘルムート・ラングが1990年代に示したのは、知的で少し冷徹な、都会の緊張感を感じさせるミニマリズムでした。ルメールは、パリの詩的な情緒と、人肌の温もりを感じさせるエレガンスを追求しています。

これらに対し、A.P.C.はより「カジュアル」で「タフ」な存在です。ジャンの作る服は、日常の生活、つまり仕事、デート、友人との食事、あるいは散歩といったシーンで、着る人が最もリラックスし、かつ自信を持てるように設計されています。それは、芸術品としての服ではなく、良質な日用品としての服です。この「手の届く贅沢」こそが、A.P.C.がこれほどまでに広く、長く支持される理由です。


A.P.C.の遺産:未来への持続可能なスタンダード

A.P.C.がファッション界に残している最大の遺産は、「トレンドからの解放」です。

現在のファッション業界は、あまりにも速いスピードで新作を消費し、廃棄しています。しかし、A.P.C.の服は、10年前に購入したデニムが今でも現役であり、5年前に買ったシャツが今でも新鮮に見えることを証明しています。これは、環境への配慮という言葉が普及する前から、ジャン・トゥイトゥが実践してきた真のサステナビリティです。

上質な素材を使い、丁寧な生産を行い、時代に左右されないデザインを提案する。この至極真っ当な服作りを貫くことで、A.P.C.は「自分自身のスタイルを持つことの喜び」を私たちに教えてくれます。

ジャン・トゥイトゥの言葉を借りれば、「服は、それ自体が主張するものではなく、着る人の人格をサポートする背景であるべきだ」ということです。A.P.C.の服に袖を通すとき、私たちは自分自身が主役であることを再認識します。パリの路地裏で生まれた小さな工房は、今や世界中の人々のクローゼットの中で、静かに、しかし力強く、新しい時代のスタンダードを形作り続けています。

流行が去った後も、あなたのクローゼットに残り続けるもの。それこそが、A.P.C.が追求し続ける、時を超えた美学なのです。

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