Hermèsの香水部門は、サドルやスカーフと同じ机の上で語られる存在として育ってきた。革と布、馬具と乗馬服、その手仕事の系譜の延長線上に、香りという第四の素材を置く——そうした位置づけが社内文書や香水部門のインタビューでも繰り返し語られている。
2004年に専属調香師Jean-Claude Ellenaが就任して以降、Hermèsは外部の香料会社にブリーフを投げて選ぶ「コンクール方式」を離れ、社内でゆっくり育てる体制へ舵を切った。「エルメティスト(Hermétiste)」と呼ばれるこの専属調香師制度は、現在Christine Nagelに引き継がれ、フランスのカブリス(Cabris)にあるアトリエ「La Maison des Parfums」を拠点に運営されている。
本稿では、その系譜と代表作、そしてJardinシリーズが背負っている「庭園の物語」という編集方針を、編集部の見立てとして整理する。
Hermès 香水の系譜 — Jean-Claude Ellena から Christine Nagel へ
Hermèsの香水ビジネスは、1951年の「Eau d’Hermès」あたりが起点として語られる。ただし「ブランドとしての香水」という意識が強く出るのは、1979年の「Calèche」以降の話で、その後しばらくは外部の調香師がHermèsの世界観を香りに翻訳する形が続いた。1990年代の「Bel Ami」「24, Faubourg」「Hermèssence」前夜の流れも、その延長線上にある。
転機は2004年だ。Jean-Claude Ellena(以下エレナ)が専属調香師として就任し、「エルメティスト」という肩書きが正式に置かれた。エレナは「香りは引き算で書くもの」という持論で知られ、Hermèsの初期作群——「Terre d’Hermès」(2006)、「Un Jardin Méditerranéen」(2003)、「Hermèssence」コレクション——を、薄く透ける水彩のようなテクスチャーでまとめ直している。香料の数を絞り、輪郭をくっきり出すスタイルは、その後のHermès香水の「文法」になった。
そのエレナが残した代表作のひとつが「Eau d’Orange Verte」だ。1979年登場のコロン系の名作で、エレナ就任後にラインが整理され、現在も基幹コロンとして残っている。シトラスとミントの抜け、ベースのオーク・モスの陰影、Hermès特有の「線の細さ」——Hermèsコロンの教科書のような存在だ。性別を問わず纏える設計で、夏場の通勤やリネンシャツとの相性が良い。
2016年、専属調香師はChristine Nagel(以下ナゲル)に交代した。ナゲルはエレナの「引き算」を踏襲しつつ、素材の量感や肌のニュアンスを書き込む方向へ筆致を変えている。「Twilly d’Hermès」(2017)、「H24」(2021)など、ナゲル期はテクスチャーが厚めで、線の細さよりも「素材の存在感」が前面に出る。世代を意識して選ぶと失敗しにくい。
ニッチ系の系譜を辿りたい読者には、Maison Francis Kurkdjianの香水ガイドと並べて読むことをすすめたい。Hermèsが「メゾンの世界観を香りに移植する」アプローチなのに対し、Kurkdjianは「調香師個人の作家性をブランド化する」アプローチで、両者を比較すると現代フレグランス産業の二つの軸が見えてくる。
Hermèsの香水ビジネスは、1951年の「Eau d’Hermès」あたりが起点として語られる。
メンズ代表作 — Terre d’Hermès と H24
Hermèsのメンズで最初に押さえるべきは「Terre d’Hermès」と「H24」だ。前者がエレナ期、後者がナゲル期を象徴する作で、世代もテクスチャーも対照的だが、どちらも「Hermèsらしさ」を別角度から定義している。
Terre d’Hermèsは2006年発表。グレープフルーツとオレンジの上気が、ベチバーとシダー、フリント(火打石)を思わせるミネラル感へと沈み込んでいく構造で、エレナの「引き算の文法」が一番分かりやすく出た一本だ。土と石、シトラスと木——四つの素材だけで風景を描き切る潔さがあり、ビジネスでもプライベートでも使える万能型として、長く定番の座を守っている。
オードトワレ、オードパルファン、パルファンの三段階があり、濃度ごとに「土」の比重が変わる。日中はオードトワレで軽く、夜はパルファンで重心を下げる、といった使い分けも効きやすい。
対するH24は2021年、ナゲル期の代表作として登場した。コア素材は「Sclarene」と呼ばれるスクラレオールベースの合成香料で、温められた布(linen)や金属、Hermèsアトリエの空気感をモチーフにしている。グリーンで瑞々しい立ち上がりから、ナルシス・スクラレン・サンダルウッドへと、エレナ期にはなかった「人工物の質感」がきっちり描き込まれているのが特徴だ。
H24はその後「Herbes Vives」「Eau de Parfum」など派生が出ているが、まず最初に試すなら2021年のオードトワレ、もしくは2023年のオードパルファンで世界観を掴むのが分かりやすい。Terre d’Hermèsを「自然・地形」の香りとすれば、H24は「室内・素材」の香りで、ワードローブの中で住み分けが効く。
香りの選び方の前提として、自分の核を整理したい読者にはシグネチャー香水の見つけ方ガイドを併読すると、Terre vs H24のどちらが自分の核に近いかが判断しやすくなる。
レディース代表作 — Voyage と Twilly と Calèche
レディースは性別を強く割り当てない「Voyage d’Hermès」、可愛らしさを軸にした「Twilly d’Hermès」、そしてHermès香水の出発点である「Calèche」の三本を押さえると、ブランドの幅が見える。
Twilly d’Hermèsは2017年、ナゲル期最初期の話題作として登場した。同名のシルク細スカーフ「Twilly」をモチーフに、ジンジャー・チュベローズ・サンダルウッドという、ナゲルが「3つのパーソナリティ」と呼ぶ素材で構成されている。可愛さの中にスパイスのピリッとした筆致が残るのが特徴で、いわゆる「フローラル・甘い系」の文脈に置きながら、Hermèsらしい線の保ち方をしている。
派生として「Eau Poivrée」「Eau Ginger」「Eau Tutti Twilly」などが出ており、コアのTwillyから素材を一つだけ強調した別バージョンとして楽しめる。
Voyage d’Hermèsは2010年、エレナ期に発表されたユニセックスの代表作だ。スパイス・ウッディ・ムスクで構成され、性別を割り当てない「旅の香り」として位置づけられている。ボトルがHermès Faubourgのトラベルケースを思わせるピューター調デザインで、香りそのものの薄いベール感とも噛み合っている。
TwillyやTerre d’Hermèsほど派手な代表作ではないが、TPOを選ばない汎用性で、Hermès愛好家の「日常着」として支持される一本だ。
そしてCalèche。1979年発表、Hermès香水の原点と呼ばれるアルデヒド・フローラル・シプレの古典で、馬車(calèche)をボトル名に冠している。現代の流通量はかなり絞られており、ブティック限定もしくはヴィンテージ市場での出会いになることが多い。
試香機会があれば、CalècheとTwillyを並べて嗅いでみると、Hermès香水が40年でどう変わったか——古典的なフローラル・シプレから、素材を抜き出した現代的なフェミニンへの移行——が体感としてわかる。アーカイブを知るという意味でも、初心者・愛好家ともに一度は通っておきたい銘柄だ。
Jardin シリーズ — 庭園の物語
Hermès香水の中でも独立した世界観を持っているのが「Un Jardin…(ある庭にて)」シリーズだ。エレナが2003年に「Un Jardin en Méditerranée」で始めたコレクションで、特定の庭園を訪れ、その土地の植物・風・気温を香りに移し替えるという編集方針を取っている。
これまでに発表された主要作は、地中海(2003)、ナイル川(2005)、屋根の上(Sur le Toit、2011)、Mr. Li(2015)、ラグーン(Sur la Lagune、2019)、湖畔(Au Bord du Canal、2022)など。タイトルだけ並べても、Hermèsが「庭園」をかなり緩く解釈していることが分かる。屋根の上、湖畔、運河沿い——必ずしも植物園的な空間ではなく、「ある場所の植物と空気」を切り取った香りという理解が近い。
「Un Jardin sur le Toit」は2011年、エレナ期のJardinシリーズの中でも特に評価が高い一本だ。Hermès本店24, Faubourg Saint-Honoréの屋上庭園をモチーフに、リンゴ・洋ナシ・バジル・ローズマリー・グラス(草)で構成されている。ジューシーなフルーツと、屋上で揺れる小さなハーブ、そして遠くに広がるパリの石材の質感——その三層が薄く重なる構造で、Hermèsらしい「線の細さ」が一番出ているシリーズ作だ。
Jardinシリーズは全体的に軽めの濃度設計で、夏場や日中、リネンや薄手のニットとの相性が良い。重い香水が苦手な読者にとって、Hermès入門の一本目になることも多い。アトリエ系のミニマル設計をさらに突き詰めた銘柄を探したい読者には、Le Labo香水ガイドも並べて検討してほしい。「素材の存在感」というベクトルでHermès Jardinシリーズの隣に置ける銘柄として、Santal 33やAnother 13などが候補に挙がる。
エルメティストの哲学 — 自社専属調香師制度
「エルメティスト(Hermétiste)」とは、Hermèsの専属調香師に与えられる肩書きであり、同時に運営思想を指す言葉でもある。一般的な香水ブランドは、ブリーフを外部の香料会社(Givaudan、Firmenich、IFF、Symriseなど)に渡し、提出されたサンプルから選ぶ「コンクール方式」を取っている。Hermèsはこの方式を2004年以降、原則として用いていない。専属調香師が自社のアトリエで素材を吟味し、外部にコンクールを開かずに作品を仕上げる、という体制だ。
このアプローチには長所と短所がある。
長所は、ブランドの世界観に対する一貫性が高くなること、そして「マーケット投票で勝った香り」ではなく「調香師が出したい線」を最後まで通せること——結果として、Hermès香水には「売れ筋に擦り寄った修正」が少なく、線の細さや構造の潔さが残りやすい。
短所は、新作のリリース頻度が他メゾンよりやや遅くなり、トレンドへの即応性が低くなる点だ。ナゲル期に入ってからは新作の発表ペースが上がっているが、それでも一般的なメゾンと比べれば、新作ローンチは控えめで、既存作の派生(Eau de Parfum版、Intense版など)で時間軸を伸ばす運営が目立つ。
カブリスの「La Maison des Parfums」は、専属調香師のアトリエであると同時に、レザー部門の調香担当部署、植物素材のサンプリングを行うラボなど、複数の機能が同居している。香水を「メゾンの素材のひとつ」として運営する姿勢が、施設の構成にも表れている。
編集部の見立て
Hermès香水を一本目に選ぶなら、編集部としては「Terre d’Hermès オードトワレ」もしくは「Un Jardin sur le Toit」を推したい。前者はエレナ期の「引き算の文法」が最も明快に出ており、Hermèsという香水部門の文法を一発で把握できる。後者はJardinシリーズのミニマル設計を体感できる軽量級で、「香水は苦手だが匂いはまといたい」読者にも入りやすい。
「ナゲル期から入りたい」という読者には、メンズなら「H24 オードパルファン」、レディース寄りなら「Twilly d’Hermès」が分かりやすい。エレナ期との筆致の違い——素材の量感、肌のニュアンスの書き込み——を意識して嗅ぐと、Hermèsという香水部門が「世代によって文法を更新するメゾン」であることが見えてくる。
そして「アーカイブから入りたい」読者には、Calècheやヴィンテージ「24, Faubourg」を試す機会を作ってほしい。1979年から続くHermèsの香水部門が、何を残し、何を変えてきたか——その軌跡を辿ることが、現行品の理解を一段深くする。香りは線で買うのではなく、文脈で買うものだ、というのが本稿の主張になる。










