ロンドン中心部、Piccadilly から北へ伸びる Jermyn Street の 89 番地。1730 年に当地で開業した Floris London(フローリス・ロンドン)は、現存する英国フレグランスハウスの中でも屈指の長寿ブランドであり、創業から約 300 年、現在も創業家ファミリーが経営を続ける数少ない老舗である。Queen Victoria の御代に王室御用達 (Royal Warrant) を授かって以降、現代に至るまで複数の王室メンバーから Warrant を授与され続け、英国における香りの基準点として静かに存在感を保ってきた。本稿では創業者 Juan Famenias Floris の人物像から Jermyn Street の店舗、王室との関わり、メンズ・レディース双方の代表香、Private Collection の Honey Oud までを編集部視点でまとめる。
Juan Famenias Floris と Jermyn Street 89 番地
Floris London の創業者 Juan Famenias Floris は、地中海西部 Menorca 島(メノルカ島)出身のスペイン人で、1720 年代後半にロンドンへ渡った。当時のロンドンは産業革命前夜の商業都市として活況を呈し、Jermyn Street 一帯は St James’s 地区の紳士向け商業エリアとして整い始めていた段階にある。1730 年、Juan は同通り 89 番地に小さな床屋兼小間物店を構え、地中海で培った香水文化を英国へ持ち込む形で香水・櫛・剃刀・髭ブラシなどを扱い始めた。これが Floris London の出発点である。
創業当初の Floris は厳密には「パフューマー」というより、紳士のグルーミング道具一式を扱う総合店だった。だが Juan が手掛けた香水とラベンダーウォーターの評判が口コミで広がり、徐々に香りそのものが看板商品へと移っていく。19 世紀に入る頃には、英国貴族や文化人の顧客名簿が分厚くなり、店舗奥の「The Floris Archive」と呼ばれる帳簿には、Mary Shelley(『フランケンシュタイン』作者)や Florence Nightingale、Beau Brummell ら、教科書級の人物の注文記録が残されているとブランド側は公表している(一次ソース未確認の伝聞は本稿では断定を避ける)。
89 番地の店舗そのものは、創業当時のマホガニー製キャビネットを今も現役で使用していることで知られる。ロンドン大空襲で内装の一部に被害が及んだ際にも創業家がキャビネットを退避させて守った、というエピソードがブランドの公式 About に記載されている。Jermyn Street という通り自体、Turnbull & Asser や Floris の隣人 Trumper’s など英国の老舗ブランドが軒を連ねるストリートであり、Floris はその中でも最古参の一角を占める。英国紳士文化と Old Money スタイルの系譜を辿るうえで、Jermyn Street は地理的にも象徴的にも外せない場所である。
創業当初の Floris は厳密には「パフューマー」というより、紳士のグルーミング道具一式を扱う総合店だった。
王室御用達の歴史 — Queen Victoria から現代まで
Floris London の名声を決定づけたのは、英国王室による Royal Warrant(王室御用達)の授与である。Royal Warrant は単なる名誉称号ではなく、王室メンバーへの継続的な納品実績と一定期間以上の取引、品質・倫理基準の維持を満たした事業者にのみ授けられる制度であり、5 年ごとに更新審査が行われる(出典: Royal Warrant Holders Association、royalwarrant.org)。商品本体に Warrant の紋章を表示する権利は、現役の Warrant 保持者にのみ与えられ、失効すると即座に撤去義務が生じる厳格な運用が続いている。
Floris が最初に Royal Warrant を授与されたのは 1820 年代、当時の King George IV の時代に「Smooth Pointed Comb Maker(櫛職人)」としての指定を受けたと公式年表には記載されている。香水ブランドとしての本格的な Warrant は、1837 年に即位した Queen Victoria の御代に授かったとされ、ここから Floris は「ヴィクトリア朝の香り」を象徴する存在として地位を確立した。
20 世紀以降も Floris は複数の王室メンバーから Warrant を授与され続け、現代では His Majesty King Charles III からの Royal Warrant を保持している(2024 年に King Charles III 名義での Warrant 再発行が公表された)。一次ソースとして Warrant の現行リストは Royal Warrant Holders Association の公式サイトで都度確認可能なため、最新の Warrant 状況については読者各自で検証されたい。
王室の式典との関わりも深く、1981 年の Prince Charles と Lady Diana Spencer のロイヤルウェディングでは、Floris が結婚式当日に Diana 妃のために特別なブーケ系の香りを調合した、という逸話がブランド側から語られている。こうしたロイヤル・コミッションの伝統は現代でもプライベートな形で続いていると見られ、店舗奥にはオーダーメイド調香 (Bespoke) のためのコンサルテーション・ルームが設けられている。市販ラインの背後に常にビスポークの世界が控えているという二重構造が、Floris を単なる商業ブランドとは異なる地位に押し上げている。
メンズ代表 — Limes / Vetiver / JF / 1962
Floris London のメンズ・ライン(ジェンダーニュートラル含む)は、英国紳士の day-to-day を支える「過不足のない香り」を軸とする。派手なシグネチャーで主張するタイプではなく、清潔感・上品さ・スーツとの相性を最優先する設計思想が一貫しており、Jermyn Street のテーラリング文化と地続きの世界観である。
まず Limes(ライムス)は、1832 年に初めてレシピが記録された Floris の歴史的フレグランスのひとつ。トップに West Indian lime(西インド諸島のライム)とベルガモットを据え、ミドルに petitgrain、ラストに musk と amber を敷く、極めてクリアなシトラスコロンだ。朝の身支度の最後にひと吹きする「英国式の清潔感」のテンプレートと言って差し支えなく、湿度の高い日本の夏にも合わせやすい。
続く 1962(ナインティーン・シックスティトゥー)は、ジェームズ・ボンド原作者 Ian Fleming が 1962 年に Floris に特注したコロンのレシピを元に、現代向けに再構成された一本。Fleming は Floris の長年の顧客であり、小説『For Your Eyes Only』には Floris の名が登場する。1962 はトップにベルガモットとマンダリン、ミドルにラベンダーとゼラニウム、ラストにオークモスとアンバーを置く、伝統的なフゼア(fougère)構造のオードトワレで、ボンドが愛したであろう「ジェントルマンの香り」を体感する一本として人気が高い。
Vetiver(ヴェティバー)は、Floris の Private Collection に位置づけられる男性向けフレグランスで、Haiti 産ベチバーを軸に bergamot・lemon の柑橘トップとサンダルウッドのウッディベースを組み合わせた構成。一般的なベチバー単独香よりも華やかさが残り、ビジネスシーンでも違和感のないバランスに整えられている。ベチバー初心者にとってのリファレンスとして編集部は推奨する。
そして JF(ジェイ・エフ)は、5 代目当主 John Floris のイニシャルを冠したシグネチャー的男性香。レモン・グレープフルーツのフレッシュなトップから、ジンジャー・カルダモンのスパイス、シダーとベチバーのドライダウンへと展開する、いわば「現代版 Floris メンズ」の完成形である。クラシック路線の Limes や 1962 に対し、JF はやや現代的でシャープな印象に振っており、20-40 代の男性が普段使いするにはこちらの方が馴染みやすい場面も多い。
レディース代表 — Bouquet de la Reine / Cefiro
女性向け(あるいはユニセックスでより華やかな方向に振った)ラインでは、英国の庭園文化と地中海起源を併せ持つ Floris の二面性が際立つ。
Bouquet de la Reine(ブーケ・ドゥ・ラ・レーヌ)は「女王のブーケ」を意味し、Queen Victoria の戴冠に際して 1838 年に Floris が献じた特注フレグランスをルーツに持つ歴史的な一本。現代版はローズ、ジャスミン、バイオレットの古典的フローラルブーケに、ベルガモットとカシスのみずみずしいトップ、ムスクとアイリスのパウダリーなベースを重ねた構成で、ヴィクトリア朝ロマンティシズムの空気感を現代のオードトワレに翻訳した内容になっている。
一方の Cefiro(ゼフィーロ)は、地中海の西風 (Zephyr) を意味するイタリア語に由来し、1934 年から続く Floris の伝統香。シチリア産レモン、ベルガモット、プチグレンの柑橘トップに、ローズマリー、ラベンダー、ゼラニウムのハーバル・フローラル、ベースにムスクとサンダルウッドを敷いた構成で、ジェンダーレスに使える穏やかなコロン系の香りである。Cefiro は Floris の中でも「夏の Jermyn Street」を象徴する一本として、英国本国でも根強いファンを抱えている。同じく英国老舗ハウスの一本 Penhaligon’s Halfetiのような濃密オリエンタル路線とは対照的で、Floris の透明感を体感するのに適した入門にもなる。
Private Collection — Honey Oud という現代の挑戦
Floris は古典香だけのブランドではなく、2010 年代以降は Private Collection と呼ばれるニッチ路線のラインを展開している。中でも 2014 年にリリースされた Honey Oud(ハニー・ウード)は、英国老舗 Floris が中東由来の oud(アガーウッド)と honey(蜂蜜)を真正面から組み合わせた意欲作で、ブランドの保守的なイメージを良い意味で裏切る一本だ。
トップに saffron(サフラン)、ミドルに rose と honey accord、ラストに oud・amber・leather・sandalwood を据えた構成は、Penhaligon’s や Boadicea the Victorious など同時代の英国ニッチ系の動向とも呼応する。Boadicea the Victorious のような濃厚オリエンタル系と比較すると、Honey Oud は oud の medicinal な側面を抑え、honey と rose のリッチさで全体を覆う方向に振られているため、初めて oud 系を試す層にも扱いやすい仕上がりである。
編集部の見立て
Floris London の魅力を一言でまとめるなら、「派手な主張をしないが、輪郭がはっきりしている英国の香り」である。Creed や Penhaligon’s といった同時代の英国ハウスと比較すると、Floris はマーケティング露出が少なく、日本国内での認知度も控えめだが、その分価格設定と中身のバランスは堅実で、いわゆる「投資価値」を期待するブランドではなく「日常を底上げする」種類のフレグランスハウスと位置づけられる。並行輸入と正規代理店の両方で日本でも入手可能だが、ボトルとパッケージの年式(ロゴデザインや capsule のリニューアル時期)が混在しやすいため、購入時には製造ロットと販売店舗の信頼性を併せて確認したい。
初めての一本を選ぶなら、メンズは Limes か 1962、レディースは Cefiro か Bouquet de la Reine、ジェンダーレスで攻めたいなら Honey Oud から入るのが編集部の見立てだ。Jermyn Street 89 番地という地理的な背景と、4 代以上にわたって創業家が経営を続ける家業の連続性、そして 19 世紀から続く Royal Warrant の系譜が、瓶の中の液体に重なって初めて Floris の真価が見えてくる。香りを買うのではなく、ロンドンの一区画の歴史を身につける感覚で対峙するブランドである。










