ソウル、元シンガーが立ち上げた韓国ストリートの前衛
Pushbutton(プッシュボタン)は、2003年に韓国・ソウルで生まれたストリートブランドです。手がけたのはデザイナーのPark Seung-gun(パク・スンゴン)で、性別の境界を軽やかに越えるレイヤリングと、80年代から90年代のポップカルチャーを引用した遊び心のある意匠で知られています。創業から23年が経った今も、ソウルを代表する独立系ブランドのひとつとして名前が挙がり続けています。
旧版の記事は、Parkが「ロンドンのCentral Saint Martinsをファッション専攻で卒業した直後にソウルへ戻り、Pushbuttonを立ち上げた」という筋書きで書かれていました。しかし複数の海外メディアの取材記事を照合したところ、この学歴は裏付けが一切見当たらず、Parkの実際の経歴とは大きく食い違うことが判明しました。本稿では、この誤りを含む旧記事の記述を一次情報で洗い直し、Pushbuttonの23年の歩みを改めて整理します。
本稿では、この誤りを含む旧記事の記述を一次情報で洗い直し、Pushbuttonの23年の歩みを改めて整理します。
創業から現在まで — 歌手からデザイナーへの回り道
ファッション学校を中退し、歌手になった10代
South China Morning PostとKorea Heraldの取材記事によると、Parkは10代の頃にソウルのファッション専門学校へ進学したものの、在学中にカラオケ店でスカウトを受け、歌手としてデビューするために学校を中退したと伝えられています。以後しばらくは音楽業界で活動し、2枚目のアルバムの制作準備を進めていた時期に、ふたたびファッションへの関心が強まったことが、Pushbutton創業のきっかけになったといいます。Central Saint Martinsをはじめとするロンドンの美術大学に在籍した記録は、今回照合した複数の英語圏メディアのいずれにも見当たりませんでした。
2019年のKorea Herald独占インタビュー時点でParkは44歳と紹介されており、逆算すると生年は1974年から1975年ごろになります。旧記事にあった「1980年代後半のソウルで生まれた」という記述とは、10年近いずれが生じます。旧記事の学歴・生年はいずれも出典が確認できない創作と判断し、本稿では採用していません。
音楽業界での活動歴があるという経歴は、Pushbuttonというブランドを理解するうえでも無視できない要素です。ステージに立つ側から服を作る側へ転じたという回り道は、韓国のエンタテインメント業界とファッション業界がごく近い距離で結びついている今日のK-POP・K-Drama文化とファッションの関係を、Pushbuttonが早い段階から体現していたことを示しています。デザイナー自身が舞台衣装やパフォーマンスの高揚感を知っていることは、後年のショー演出やコレクションの華やかさにも影響を与えていると見る向きもあります。
ブランド名の由来と、イタウォンのショールーム
Pushbuttonという名前は、Madonnaが2003年に発表したダンストラック「Hollywood」の歌詞「push the button, don’t push the button」に由来すると、複数の媒体が伝えています。ParkにとってMadonnaは長年のミューズであり、ブランド名そのものに自身の音楽時代の記憶を織り込んだ格好です。旧記事にあった「ボタンを押す瞬間性を象徴する哲学的な命名」という説明には出典が確認できず、実際の由来とは異なるため、本稿では差し替えました。
創業の時期についても媒体によって幅があります。SSENSEやKultScene、公式まわりの紹介記事の多くは2003年創業としていますが、Korea Herald独自インタビューでは2004年にソウル・イタウォンの小さなショールームから始めたとPark自身が語っており、創業年には一次情報同士でも1年程度のずれがあります。本稿では広く採用されている2003年を軸としつつ、この差異を明記しておきます。
ソウル・ファッション・ウィークへの本格参入とBest Designer受賞
Pushbuttonがソウル・ファッション・ウィークで本格的にコレクションを発表するようになったのは2010年からです。W MagazineやKultScene、i-Dといった海外ファッションメディアが継続的に取り上げるようになり、Seoul発の独立系ブランドとして国際的な知名度を伸ばしていきました。
旧記事は「2014年、Mercedes-Benz Fashion Week SeoulでKorea Fashion Designer of the Yearを受賞した」と書いていましたが、この年号・賞名を裏付ける一次情報は見つかりませんでした。代わりにW Magazineの記事が伝えているのは、2016年10月に開催されたソウル・ファッション・ウィークのクロージング・ガラで、バイヤーと編集者による審査委員会からPark Seung-gunがBest Designerに選ばれたという事実です。年号も賞の名称も旧記事とは異なるため、本稿ではW Magazineの記述に沿って訂正しています。
ロンドンでの発表と国際卸売の広がり、DRESSMONSTER
Business of Fashionの記事によれば、Pushbuttonはロンドン・ファッション・ウィークにも複数回参加しており、2019年9月には2020年春夏コレクションでロンドンでの3回目の発表を行っています。Korea Herald記事では、この時点で売上の8割を海外市場が占め、Net-a-Porter、Harvey Nichols、Browns Fashionを含む世界39カ所の小売店で取り扱われていたと述べられています。旧記事にあったMATCHESFASHIONやSelfridges、Dover Street Marketなど個別店舗名の列記は、今回の調査では裏付けが取れなかったため採用を見送りました。
KultScene記事によると、2008年にはヨーロッパ市場への展開に合わせて、より手頃な価格帯の姉妹ライン「DRESSMONSTER」を立ち上げています。本ラインの存在は、Pushbuttonが単一のハイエンド路線だけでなく、価格帯を分けた展開戦略を早い段階から採っていたことを示す事実として、旧記事にはなかった新規情報として追加しました。
ブランドの美学 — 対極を縫い合わせるデザイン
Pushbuttonのデザイン哲学を端的に示す言葉として、Park自身が語ったとされる「人が普通は買わないようなものを作りたい」という発言が知られています。この言葉どおり、コレクションにはキッチュで大胆なアイテムや、左右非対称な丈のパンツのように、日常の慣習からあえて外れたシルエットが繰り返し登場してきました。
南華早報(South China Morning Post)は、Parkを「ジェンダーの境界を押し広げるデザイナー」として紹介しています。W Magazineが伝えるショーの様子でも、男性モデルがヒールブーツを履いて歩き、女性モデルがオーバーサイズのスーツをまとうという構成が確認でき、男女という区分そのものを揺さぶる姿勢が一貫しています。旧記事は、この志向を「Genderless Layering」という独自の技法名で呼んでいましたが、この呼称自体の出典は確認できなかったため、本稿では固有の技法名としては扱わず、ジェンダーの境界を越える設計思想として説明しています。
色や素材の選び方にも、対極の要素を意図的にぶつける手法が見られます。セクシーさとスポーティーさ、フェミニンさとマスキュリンさ、過去と未来といった相反する要素を同じコレクションの中で共存させることが、Pushbuttonらしさとして評価されてきました。W Magazineの記事は、Parkがマルセル・デュシャンのレディメイド作品からインスピレーションを得ており、「アーティスティックでありながら商業的でもありたい」と語っていたことも伝えています。
i-Dが2021年に掲載したソウル・ファッション・ウィークSS21のレビューでは、Pushbuttonのショーを「テーラリングと韓国の伝統を融合させるデザイナー」と評しており、単なる欧米ストリートの模倣ではなく、韓国的な要素を独自の文脈で組み込む姿勢が、10年以上のキャリアを通じて続いていることがうかがえます。80年代・90年代の映画やポップミュージックからの引用も、Parkが繰り返し語ってきたモチーフのひとつです。
ショーの構成自体も、単なる新作の発表会にとどまらない演出性を伴うことが多いブランドです。モデルの歩き方や配役、音楽の選び方に至るまで、コレクション全体をひとつの物語として提示しようとする姿勢は、Parkが音楽業界での活動を経てファッションに戻ってきた背景と無関係ではないと考えられます。海外メディアの取材でも、ショーそのものが持つエンタテインメント性の高さが繰り返し言及されてきました。
素材選びにおいても、光沢のあるサテンやビニールのような異素材を、あえてクラシックなテーラードのシルエットに組み合わせる手法が見られます。上質さとキッチュさという、通常であれば相容れないはずの要素を同居させる構成は、Parkが公言してきた「人が普通は買わないものを作りたい」という発想の延長線上にあるといえます。
代表アイテム — Pushbuttonの語彙
Pushbuttonのコレクションの中で繰り返し語られてきたのが、性別を問わず着られるアウターです。肩の落ちたシルエットや過剰なボリュームを持つジャケットは、メンズのコレクションとウィメンズのコレクションの垣根を曖昧にする象徴的なアイテムとして扱われてきました。
ロングシルエットのコートも、Pushbuttonのショーで繰り返し目にするアイテムです。丈感やボリュームを大きく取りながら、あえてバランスを崩したカッティングを組み込むことで、90年代的なノスタルジーと未来的な要素を同居させる構成が特徴です。日本国内の古着流通でも、このタイプのアウターは一定の存在感を持って扱われています。
シャツやトップスにおいても、左右非対称の裾や、通常とは異なる位置に配置された釦など、あえて「普通ではない」ディテールを組み込む姿勢が徹底されています。Park自身が語る「人が普通は買わないものを作る」という発想は、こうした細部の作り込みに最もよく表れているといえます。
ニットについては、鮮やかな色使いや、異素材を組み合わせたテクスチャーの実験が目立ちます。抑えた配色でまとめられるシーズンもあれば、原色に近い差し色を大胆に取り入れるシーズンもあり、年によって振れ幅が大きいことも、Pushbuttonというブランドの実験的な姿勢を裏付けています。
バッグやアクセサリー類も、Pushbuttonのショーでは服と同じくらい存在感を放つアイテムとして扱われてきました。過剰なほどのボリュームを持たせたバッグや、素材の異なるパーツを組み合わせた小物は、コーディネート全体の「対極を縫い合わせる」というテーマを補強する役割を担っています。単体で使うよりも、シルエットの大きなアウターやアシンメトリーなボトムスと組み合わせることで、Pushbuttonらしい世界観がより際立ちます。
KultScene記事は、Pushbuttonのアイテムが韓国の音楽グループEXO、f(x)、CNBLUE、テミン(SHINee)、Beenzinoといったアーティストのステージ衣装やミュージックビデオで使われてきたことを伝えています。同記事によれば、HyunAやLee Hi、Kim Won Joon、NaNaといったアーティストも着用してきました。W Magazineの記事でも、少女時代のヒョヨンがショーの最前列に座っていた様子が紹介されており、韓国のエンタテインメント業界との距離の近さは、旧記事が挙げていた著名人リストとは顔ぶれは異なるものの、事実として確認できます。旧記事にあったBLACKPINKやTWICE、G-Dragon、Park Seo-joon、Hyun Binなどの列記は、今回の調査では裏付けが取れなかったため採用していません。
どんな人に向くブランドか
Pushbuttonは、性別を問わないシルエットやレイヤリングを楽しみたい人に向いたブランドです。メンズ・ウィメンズという区分にとらわれず、オーバーサイズのアウターやアシンメトリーなボトムスを自由に組み合わせたい人にとっては、選択肢の幅が広い作り手だといえます。
一方で、体に沿ったクラシックなシルエットや、控えめなディテールを好む人には、やや主張が強すぎると感じられる場合があります。Pushbuttonのアイテムは、着る側が服の遊び心に合わせて振る舞いを変えるくらいの余白を残しているため、あえて目立つ着こなしを楽しめる人との相性がよいブランドです。
K-POPやK-Dramaの衣装に関心があり、韓国発のストリートブランドを掘り下げたい人にとっても、Parkが2000年代初頭から続けてきたPushbuttonは、韓国独立系ブランドの中でも古参に位置づけられる存在として押さえておく価値があります。
また、性別を問わないサイズ展開や品番設計を採用しているブランドを探している人にも向いています。メンズのラックとウィメンズのラックを分けずに眺めるような感覚でコレクションを見られる点は、既存の紳士服・婦人服という区分に窮屈さを感じている人にとって、ひとつの選択肢になり得ます。逆に、シーズンごとの一貫したアイコンアイテムを求める人には、年によって色使いや素材の振れ幅が大きいPushbuttonはやや掴みどころのない印象を与えるかもしれません。
中古市場でのPushbutton
Pushbuttonの中古品は、国内外の古着流通やオンラインのリセールプラットフォームで断続的に見かけるブランドです。旧記事には、アイテム別の中古価格帯を円建てで具体的に示す記述がありましたが、これらの数値を裏付ける一次情報は確認できなかったため、本稿では具体的な金額を示すことを避けています。中古品を探す際は、フリマアプリやセレクト古着店の実勢価格を都度確認することをおすすめします。
流通量としては、ハイブランドの定番品ほど頻繁に出回るわけではなく、シーズンやアイテムによって見つけやすさに差があります。オーバーサイズのアウターやアシンメトリーなボトムスなど、Pushbuttonらしいデザインの効いたアイテムほど、一点物に近い感覚で探す楽しみがあるといえます。
サイズ表記については、韓国のブランドに共通する傾向として、日本や欧米の号数表記とは感覚が異なる場合があります。中古で購入する際は、採寸データを必ず確認し、実店舗で試着できる機会があれば積極的に活用することをおすすめします。
状態を見極める際には、Pushbutton特有の非対称なカッティングやレイヤー構造が、単なる型崩れなのか、それとも設計上意図されたシルエットなのかを見分ける視点が必要です。写真だけで判断せず、出品者に採寸箇所を細かく確認する、あるいは同シーズンの海外メディア掲載画像と照らし合わせるといった手間をかけることで、意図されたデザインと経年劣化を取り違えるリスクを減らせます。真贋についても、公式のタグやロゴの書体、縫製の仕上がりを、SSENSEなど正規取扱の画像と比較する姿勢が安心につながります。
よくある疑問
Q. Pushbuttonの創業者はCentral Saint Martins出身なのですか。
A. いいえ。今回の調査で確認できた複数の海外メディアの記事によれば、創業者のPark Seung-gunはロンドンの美術大学に在籍した記録がなく、10代でソウルのファッション専門学校を中退したのち、歌手としての活動を経てファッションの世界に戻ったという経歴が伝えられています。CSM出身という説明は、旧版の記事に含まれていた誤りです。
Q. ブランド名の「Pushbutton」にはどんな意味がありますか。
A. Madonnaが2003年に発表した楽曲「Hollywood」の歌詞に由来するとされています。Parkにとって長年のミューズであるMadonnaへの敬意を込めた命名で、ボタンを押す行為の象徴性を語る哲学的な由来ではありません。
Q. Pushbuttonは今も活動を続けているのですか。
A. 2026年時点でもSSENSEなど複数の国際ECサイトが最新シーズンのコレクションを継続的に取り扱っており、公式のInstagramアカウントも運営が続いています。創業者の引退やクリエイティブディレクター交代を伝える一次情報は見当たらず、Park Seung-gun自身が現在も設計を主導しているとみられます。
Q. 日本国内で新品を購入できる店舗はありますか。
A. 旧記事にはBeamsやEstnation、United Arrowsといった具体的な国内取扱店名がありましたが、今回の調査で明確な裏付けは得られませんでした。日本からはSSENSEなど国際発送に対応するECサイトを通じて購入するのが確実な方法です。
Q. Pushbuttonと同時代に登場した韓国ブランドにはどんなものがありますか。
A. Pushbutton自身が2003年創業という早い時期に始動したのに対し、2010年代以降にはソウル発の独立系ブランドが世界的な注目を集める場面が増えました。個々のブランドの創業年や経営体制は変化が早い領域でもあるため、本稿では特定のブランド名や年号を断定的に列記することは避け、Pushbuttonが韓国独立系前衛ブランドの古参として位置づけられているという点にとどめています。
まとめ — 歌手から始まった、ソウルの前衛ブランドの23年
Pushbuttonは、2003年にソウルで産声を上げてから、韓国国内の独立系前衛ブランドの中でも古参にあたる歴史を積み重ねてきました。創業者のPark Seung-gunは、Central Saint Martinsの卒業生としてではなく、10代でファッション学校を中退して歌手になり、その後ふたたびデザインの世界に戻ってきたという回り道を経た人物です。ブランド名の由来がMadonnaの楽曲にあるという事実も、旧記事が語っていた哲学的な命名譚とは異なる、もうひとつの実像といえます。
2010年のソウル・ファッション・ウィーク本格参入、2016年のBest Designer受賞、ロンドンでの発表や国際卸売の広がり、そしてEXOやf(x)、CNBLUE、テミンといったアーティストとの結びつきは、いずれも一次情報で裏付けられる事実として本稿に反映しました。一方で、旧記事にあった著名人の列記や具体的な中古価格帯、複数の海外店舗名などは、出典が確認できなかったため思い切って削ぎ落としています。
性別の境界を越えるレイヤリングと、対極の要素を縫い合わせるデザイン哲学は、23年を経た今も色あせていません。中古市場でPushbuttonのアイテムを探す際は、価格や流通量を過度に期待するのではなく、一点ごとのディテールを楽しむ姿勢で向き合うのがふさわしいブランドだといえるでしょう。
旧記事のように具体的だが出典のない経歴や数値を積み重ねるのではなく、確認できた事実とできなかった事実を切り分けて示すことは、読み手がPushbuttonというブランドを自分なりに評価するための土台になります。歌手からデザイナーへと転じたParkの回り道、Madonnaの楽曲に由来するブランド名、そして韓国の伝統とテーラリングを独自に融合させる姿勢は、いずれも一次情報で確認できた実像として、本稿の中心に据えました。











